【短期集中連載・第3回】アクセル踏むのもいいけど、ブレーキはどうなっている?【文筆家/岡田育】

岡田育




出版社に勤めて8年目、ある女の子から「就職活動の相談に乗ってほしい」とメールを受け取り、会うことになりました。編集者になりたい、でも志望する出版社は求人していない、どうしたら岡田さんのような編集者になれますか、と訊いてくる現役女子大生の前で、こう切り返すのは、だいぶ勇気のいることでした。

 

「大変申し訳ないのですが、じつは私、今まさに会社を辞めようと思っているんですよね……」

 

入社したて20代半ばの頃は、そんなことまったく考えてもいませんでした。毎日忙しく充実した日々を過ごし、このままずっと、定年退職するまで同じ職場で同じように働くのだと、信じて疑っていなかったのです。

 

本当にこの会社に勤め続けていていいんだろうか? と迷ったことなら、あります。社員数の少ない小さな会社では、新人は人手不足の部署へ回されるのが常です。書籍を作りたかった私も雑誌編集部に配属され、やりたい仕事ができるまであと何年かかるのか想像もつきませんでした。

 

憧れていた先輩たちが次々と転職したり留学したり、同期入社の子が3年で辞めたり、同じ会社に「残る」自分が、何か間違った選択をしているように思えた時期もあります。で、別の大手出版社が第二新卒を募集していると聞いて、思わず応募しました。面接官は有名な雑誌の編集長で、「君がいるのは素晴らしい会社なんだから、あちらで精一杯頑張りなさいよ」と見事に追い返されます。私の魂の軸がフラフラしていることを、ちゃんとお見通しだったのでしょう。

 

学生時代の私はずっと、「誰かにお墨付きをもらいたい」と思っていました。君も社会人になっていい、もっと高いお給料やボーナスをもらっていい、明日も今日と同じように仕事をし続けていていいんだよと、学校のテストで「よくできました」と合格ハンコをつかれるようにして、認めてほしかったわけです。

 

でも、社会に出て働くということは、自分以外の誰かに頭を撫でてもらうより先に、自分自身が納得して、愛と誇りを持って目の前の仕事をするということなのだ。その本質を理解していない限り、別の出版社へ移って編集長になろうと、別の業界へ転職して年収が五倍になろうと、いつまでも自分の仕事に自信が持てないままだろう。まずは自分に与えられた環境で、全力を尽くしてみるべきなんじゃないのか?

 

そう気づくのと前後して、念願の書籍編集部へ異動になりました。あたためていた企画書はすぐに承認され、引き継いだ役目にもすぐ成果が出て、心の底から「この仕事が大好きだ」と感じられる日々が続きました。会社に損失を与えるような大失敗も無数にやらかしましたが、それさえも「働いて返そう」と奮起していました。いろいろな迷いが一度に吹っ切れた気分でした。

 

とはいえ、ちょっと吹っ切れすぎた、というのが、冒頭の女子大生と会った頃です。31歳独身、あまりに仕事が楽しすぎて、逆に不安が過ぎります。連日の激務に心身の健康がみるみる削れていく実感があり、「こんなに異様なハイテンションを保って、本当に、定年まで働き続けられるんだろうか?」と気にしはじめると止まりません。今はアクセルを全開に踏み抜いてるけど、スピードを出しすぎて別の道へ行く選択肢を見落としてしまうのでは? 曲がり角で減速する方法って習っていたっけ? というか私、そもそも、ブレーキ装備してたっけ?

 

そんな折り、知人の会社から転職の誘いを受けました。今まで編集者として培った能力を別の業界で発揮してほしいという依頼で、何よりも魅力だったのは「年収は微増、忙しさは半減」という待遇です。年俸制の社員登用で、週に何回オフィスへ顔を出すかも自分で決めてよく、残りの時間でどんな副業をしてもよい、という条件は、これからの人生における「別の道」や「ブレーキの踏み方」についてゆっくり考えるのにうってつけでした。

 

編集者志望の女子大生の前で、その心理を説明するのはとても難しいことでした。今の職場は大好きだし、狭き門をくぐってチャンスを掴んだのだから死ぬまで続けたい気持ちもある。「だけど、他にもやりたいことがある気がするんだよね……」と、最終的には社会人である私のほうが、ずっと年下の女の子に人生相談に乗ってもらうかたちになってしまいました。

 

ちなみにこの彼女は、その後めでたくウェブメディアの編集部に入社しました。入れ違いに出版社を辞めた私に「新しい仕事がそんなに暇なら、うちでエッセイの連載をしませんか? 原稿料も払いますよ」と誘ってくれた、私にとって初めての担当編集者です。東銀座の喫茶店で彼女と会っても会わなくても、私は予定通り一つ目の会社を円満退職し、二つ目の会社に入社していたと思います。でも、あのとき彼女と会わなければ、私の職業が「編集者」から「文筆家」に変わることはなかったかもしれない、とも思います。人生はどう転ぶかわかりませんね。

 

岡田育(おかだ・いく)
文筆家。出版社勤務を経てエッセイの執筆を始める。著作に『ハジの多い人生』(新書館)、『嫁へ行くつもりじゃなかった』(大和書房)、二村ヒトシ・金田淳子との共著『オトコのカラダはキモチいい』(角川文庫)。現在はNY在住。
http://okadaic.net/

岡田育






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