ソクラテスとは?
「無知の知」はソクラテスが提唱した考え方です。
ここでは、まずソクラテスについてご紹介します。
古代ギリシャの哲学者
ソクラテスは古代ギリシャの哲学者です。
ソクラテスは著書がないので、ソクラテスの考え方はアリストテレスやプラトンの著書で知られています。
母親は助産婦で、父親は石工または彫刻家であったと言われています。
アテナイでソクラテスが誕生し、従軍してから、門答法という相手に徳や倫理を追及する問いを投げかけるもので哲学をアテナイで展開しました。
毒を飲んで死んだ
「青年を堕落させ、新奇の神を信じ、国家が認める神々を認めないことで罪を犯した」としてソクラテスは告訴され、民衆裁判によって死刑になりました。
同じ原理が個人も国家も支配すると、ソクラテスは考えていました。
死を前にしても国家の正義は個人の正義であることは揺らがなく、死刑を受け容れて、最期の1日を「幸せそうな様子で過ごして、毒を飲んで死にました。
「無知の知」の意味とは?
「自分が無知ということを知っている」ことが、「無知の知」の意味です。
つまり、「いかに自分が全く知らないかを自覚せよ」という意味です。
このような謙虚な考え方を持ち続けることが大切であると言うことです。
というのは、知ったような気になったときに、物事に対する追求が終わって、知的好奇心が衰えてしまうためです。
そうなれば、アイデアや新しいものを拒むようになり、成長が止まって、真っ先に自分の地位や身の安全を守ろうとします。
おそらく、次のような経験が誰でもあるでしょう。
- わからないことをわからないと自分が認めることが恥ずかしい
- 他の人より自分の方が多くのことがわかっていると自慢した
このようなことは、自分の成長を止めてしまいます。
自分が成長するために謙虚に学習しようとする考え方から、がんじがらめに保身と偏見でなる考え方に変わってしまいます。
しかし、素直に自分の「無知」を認めて、「無知の知」を知ると、心を他の人に開いて、新しい考え方が受け入れられるようになります。
純粋な好奇心が生まれて、自分が健やかに成長していきます。
「無知の知」が生まれた背景とは?
カイレフォーンというソクラテスの友人は、神様のお告げを受けるためにアポロン神殿に行ったときに、アポロンに「知恵がソクラテスよりある人がいるか」と尋ねました。
カイレフォーンは、最も知恵があるのはソクラテスであると考えていました。
しかし、いないということがアポロンの答えでした。
ソクラテスにこのことが伝わると、「そんなことはない」と受け入れませんでした。
ソクラテスは賢者と言われている人に確認しましたが、話をする中において知恵が賢者と言われている人もないと思い始めました。
そして、次のような結論にソクラテスは達しました。
「善美については賢者と言われている人も自分も知らないが、善美を彼らは知らないが知っているつもりになっており、自分は知らないことを知っていることがただ一つ違っている」というものです。
つまり、まだ知らないことがあるにも関わらず知っているように行動するよりも、知恵があるのは知らないことを知っている方であるという意味です。
そして、「無知の知」として、この言葉が世の中に広まっていきました。
「無知の知」の対義語とは?
「厚顔無恥(こうがんむち)」が、「無知の知」の対義語として謙虚に学習する姿勢という意味でよく使用されます。
「厚顔無恥」の意味としては、恥知らずな様子、図々しい様子ということです。
この「無恥」の意味は、「無知」ということではなく、恥ずかしいことがわからないということです。
例えば、「厚顔無恥」の例文としては、「自分がやると言っておきながら、成功しないと責任を他の人に押しつけるとは厚顔無恥な人である」「お金を初めての人に借りるとは厚顔無恥にも限度がある」などがあります。
他の人に対する気配りが足りなくて、自分勝手で恥を恥と感じないような人対して、「厚顔無恥」は使用されます。
「無知の知」と同じようなことわざとは?
現在の日本にも、「無知の知」と同じようなことわざが残っています。
それほど耳にしたことがないかもしれませんが、ぜひこの機会に把握しておきましょう。
ここでは、「無知の知」と同じようなことわざについてご紹介します。
「一知半解(いっちはんかい)」
このことわざの意味は、理解が十分にできていなくて生かじりで、少し知っているのみで実際にはよく知らない状況であることです。
「無知の知」と同じような言葉ですが、「無知の知」の意味は知らないことを自覚することであり、「一知半解」の意味はよく知らないことを表現しているため、ちょっと違った意味の言葉でしょう。
「一知半解」を使った例文としては、「この業務は一知半解であったが、上長の業務を参考にしてその場はなんとか凌ぐことができた」などがあります。
「浅学菲才(せんがくひさい)」
このことわざの意味は、学問についての知識が未熟で才能が足りないということです。
自分を謙遜するときに主として使われるため、「無知の知」と同じようなことわざでしょう。
「浅学菲才」を使った例文としては、「自分は浅学菲才ですが、この仕事は責任を持って担当させていただきます」などがあります。
「無知の知」と同じような意味で謙虚な姿勢で頑張ることを表現するため、ことわざとしては同じようなものでしょう。
「知らざるを知らずと為せ是知るなり(しらざるをしらずとなせこれしるなり)」
このことわざは、論語の教えであり、知らないことは正直に知らないと言うことが、知ることが本当にできるのであり、知らないのに実際に知っているふりをすれば知識も学問も上達しないということです。
このことわざは、「無知の知」と同じような意味があります。
知ったように知らないことを行動するなという教えは、古くからアジアでもありました。
論語は弟子たちが孔子の教えをまとめたものですが、孔子とソクラテスはほとんど同じ時期に活躍していたため、「無知の知」と同じ教えは世界各地で古くからあったことがわかります。
「無知の知」の英語表現とは?
「I know that I know nothing」が、「無知の知」の英語表現です。
日本語の訳としては、「自分が全く知らないことを自分は知っている」ということになります。
このように謙虚に学習する姿勢は、プロのスポーツ選手や一流の職人などがよく使用しているときが多くあります。
プロのスポーツ選手や一流の職人などが、「自分の専門分野についてはまだ自分は全く知らない」などと言っているのを耳にしたことがあるでしょう。