犬に論語とは? 由来や類義語、対義語などを解説




犬に論語とは?

犬に論語というのは、道理のわからない者にはどのようなことをいっても無駄であるということです。

犬に論語は、理解する力が何かについて無かったり、聞いたふりをしたり、基本的に聞く耳を持たなかったりするような人を批判するときに使われます。

そのため、基本的に、犬に論語はマイナスなニュアンスになります。

例えば、あることについて考え方が偏って別の考え方を受け入れない人については、どのようなことをいっても意味が全く無いでしょう。

一生懸命いかに話をしても、別の考え方を受け入れないため、無駄になります。

犬に論語は、このようなときに使います。

また、犬に論語は自分の状態をいうときに使うこともあります。

自分は何らかの理由でその話が理解できないと伝えたいときです。

理由としては、専門的な話であったり、関心が無い分野であったりすることです。

このような使い方のときは、断りや謙遜などの意味が含まれます。

犬に論語の由来とは?

犬に論語の由来は、はっきりしていません。

古い使い方としては、「犬に論語といふたとへ」という台詞が江戸時代に歌舞伎や浄瑠璃の作者として人気になった近松門左衛門の浄瑠璃・本領曾我にあります。

そのため、元禄時代には遅くとも広く知れ渡っていたものと思われます。

元禄時代は、江戸幕府の5代目の徳川綱吉の将軍の時代です。

幕藩体制が安定すると同時に、武力で敵を圧伏する武断政治から文治政治が儒学によって推進された時代です。

戦争のない時代の処世準則として、論語は庶民から武士にいたるまで必要な修養書になりました。

また、犬はいやしい生き物を比喩として表現しますが、生類憐れみの令によって元禄時代には優遇されました。

元禄時代に犬に論語が流行したのは、儒教と生類憐れみの令を推し進めた徳川綱吉の将軍を批判する意味もあったと思われます。

犬に論語の類義語とは?

ここでは、犬に論語の類義語についてご紹介します。

なお、犬に論語の類義語は非常に多くありますが、ここでは一部についてご紹介します。

馬の耳に念仏

犬に論語の類義語としては、馬の耳に念仏があります。

馬の耳に念仏の意味は、意見をいくらいったり、忠告をいくらしたりしても効果がないことです。

ありがたみが念仏を馬に聞かせてもわからないということから、価値がいくらいってもわからないという意味になります。

特に、いい情報のアドバイスなどを伝えようと思っても効果がないようなときに、よく馬の耳に念仏の表現が使われます。

これ以外に、動物についての馬の耳に念仏の類義語としては、豚に真珠、牛に経文などがあります。

暖簾に腕押し

犬に論語の類義語としては、暖簾に腕押しもあります。

暖簾に腕押しの意味は、張り合いがなく手応えがないということです。

ゆるやかな風でも暖簾は動くくらいであるため、腕で暖簾を押しても手応えが全く感じられないために、意味としては張り合いがないということを表現しています。

手応えがないということは行っても無駄であるため、犬に論語とは無駄であるということで類義語といえるでしょう。

また、暖簾に腕押しの類義語としては、糠に釘もあります。

犬に論語の対義語とは?

ここでは、犬に論語の対義語についてご紹介します。

犬に論語の意味は無駄であるということであるため、対義語はこの逆の意味になります。

打てば響く

犬に論語の対義語としては、打てば響くがあります。

打てば響くの意味は、早く効果が現れることやすぐに反応することです。

打てば響くのイメージのベースは、打てば音がすぐに鳴り響くような鐘や太鼓などになっています。

何かをいったり行ったりした結果、効果や反応がすぐに現れるということであるため、犬に論語の対義語といえるでしょう。

一を聞いて十を知る

犬に論語の対義語としては、一を聞いて十を知るもあります。

一を聞いて十を知るの意味は、一部の物ごとを聞いたのみで全てがわかるということです。

一を聞いて十を知るは、賢明で察しがいいことや理解が速いことを表現しています。

経験や知識が十分にあってこそ話が展開したり結びついたりしていくため、一を聞いて十を知ることはトータル的に教養や知識を持ち合わせてこそできるでしょう。

犬に論語と同じような意味の四字熟語とは?

ここでは、犬に論語と同じような意味の四字熟語についてご紹介します。

馬耳東風(ばじとうふう)

「馬耳東風」というのは、自分にとって大切な話ということがわからなくて聞き流してしまうことです。

「世の人々は詩などを聞いても良さを理解できずに聞き入れない。まさに馬が耳をなでる春風になにも感じないように。」というニュアンスの言葉が、中国の唐の時代の詩人の李白の『答王十二寒夜独有懐』の中にあります。

この言葉が、馬耳東風の由来になりました。

対牛弾琴(たいぎゅうだんきん)

対牛弾琴というのは、無駄に好意が終わること、意味も全くないことを表現したものです。

例えば、音楽を聞いてもわからない牛に琴を聞かせても全く響かないように、高邁な話を凡人に聞かせても全く感じなく、意味も全くありません。

なお、牛に対して琴を弾ずは、対牛弾琴の四字熟語を読み下したものです。

呼牛呼馬(こぎゅうこば)

呼牛呼馬というのは、取り合わなくていいたいようにいわせることを表現したものです。

「あなたが私を牛と呼んだので之を牛といい、馬と呼ぶなら之を馬というだろう」という意味で、中国の戦国時代の思想家の荘子の『荘子』の著作の天道篇の中に呼牛呼馬が登場しています。

犬に論語のニュアンスは意味がわからないために聞き流すということですが、呼牛呼馬のニュアンスは意味がわかっているが取り合わないということの違いがあります。

犬に論語の英語表現とは?

犬に論語は比喩的なものであるため、そのまま英語表現にして「Analects for dogs」「Teaching the Analects of Confucius to dogs.」などとしても意味が全く通じません。

犬に論語の英語表現としては、次のようなものがいいでしょう。

「It is useless to teach the Analects of Confucius to dogs.」(論語を犬に教えようとしても無駄である。)






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RUN-WAY編集部

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