「厭世観(えんせいかん)」の意味とは? 「厭世感」との使いわけなどを解説




「厭世観(えんせいかん)」の意味とは?

「厭世観(えんせいかん)」という言葉は、普段あまり見たり聞いたりすることはないでしょう。

では、「厭世観」はどのような意味があるのでしょうか?

「厭世観」は、不幸に人生は満ちているという考えや世界観を表現する言葉です。

「厭世観」は、社会は「厭世主義」をベースに悪で満たされており、いいことが少ないとする思想や態度をいいます。

「厭世観」があれば、日々の生活で満足感や幸福感が得られなくなってきます。

そのため、他の人の行動やモノのあり方にプラス価値や積極的な態度が見出せなくなってきます。

このように、「厭世観」はネガティブに物事の成り行きや結果を考える悲観的な態度などをいいます。

「厭世観」は、幸せであると人生の全てにおいて感じられなくなって、ポジティブな態度が受け入れられない姿勢や態度をいいます。

「厭世観」は「pessimism」(ペシミズム)と英語ではいいます。

近年は、「ペシミズム」というカタカナ語が、「オプティミズム」(楽天主義)の対義語としてよく使われるようになっています。

また、「厭世観」は深い関係が仏教ともあります。

基本的に、お釈迦様が持っている「厭世観」から仏教は始まったもので、「ペシミズム」が人や世の中を助ける仏教のメインになる教えの根源であるといわれています。

そのため、「厭世観」が存在しないと仏教は正しく機能しなくなって、「厭世観」がないと、仏教でなくなってしまいます。

仏教は、憐れみを相手に対して感じて、救いの手を差し伸べるものです。

そのため、「厭世観」が仏教の出発点になったことは容易にわかるでしょう。

「厭世観」と「厭世感」の違いとは?

「厭世観」の読み方の「えんせいかん」としては、「厭世感」という言葉があります。

では、「厭世観」と「厭世感」はどのような違いがあるのでしょうか?

ここでは、「厭世観」と「厭世感」の違いについてご紹介します。

「厭世観」

「厭世観」の「観」の意味はものの見方や様があるため、「厭世観」の意味は自分が生きている世界を意味がないと考えたり、嫌いと考えたりするものの見方や様になります。

そのため、「厭世観」と「厭世感」の違いは、「観」の意味と「感」の意味の違いになります。

「厭世観」の使い方として、例えば、「価値観」という言葉についてご紹介します。

「価値観」という言葉は、価値観を示す、価値観を持っている、などというように使います。

「厭世観」という言葉も、同じように、厭世観を示す、厭世観を持っている、などというように使えます。

「厭世観」と「厭世感」の使いわけ

「厭世観」と「厭世感」の違いは、先にご紹介したように「観」の意味と「感」の意味の違いにあります。

「厭世観」と「厭世感」を使いわけるときは、「観」の意味と「感」の意味をベースにしましょう。

簡単に使いわけをご紹介すると、ものの考え方や見方に関係するときは「厭世観」を使って、感情や気持ちが関係するときは「厭世感」を使うようにしましょう。

「虚無感」と「厭世感」の違いとは?

「厭世感」と同じような意味の言葉そしては、「虚無感」があります。

では、「虚無感」と「厭世感」はどのような違いがあるのでしょうか?

ここでは、「虚無感」と「厭世感」の違いについてご紹介します。

「虚無感」

「虚無感」の「虚無」の意味としては、全ての世の中に意味がないと考えること、ことがらやものが全く無くてむなしいこと、があります。

ここに感情や気持ちを表現する「感」をプラスしているため、「虚無感」の意味は、全ての世の中に意味がないと考える気持ち、ことがらやものが全く無くてむなしい気持ち、になります。

「厭世感」の使い方と同じように、「虚無感」の使い方としては、虚無感を与える、虚無感がある、などになります。

「虚無」と「厭世」の共通点

ここでは、「虚無」と「厭世」の共通点についてご紹介します。

「虚無」と「厭世」は、無意味であると世の中を考えるという意味があることで共通しています。

「虚無」と「厭世」の違い

「虚無」と「厭世」は、無意味であると世の中を考えるという共通点がありますが、ではどのような違いがあるのでしょうか?

ここでは、「虚無」と「厭世」の違いについてご紹介します。

一言で「虚無」と「厭世」の違いを表現すると、「感情の違い」があります。

「虚無」の「虚」の意味はむなしいであり、「厭世」の「厭」の意味は厭うです。

なお、「むなしい」は、「虚しい」と漢字で書くことができます。

このように、「虚無感」という言葉のニュアンスとしては虚しいが含まれており、「厭世感」という言葉のニュアンスとしては嫌いが含まれています。

そのため、使いわけをするときは、虚しいというニュアンスがあるか、嫌いというニュアンスがあるかに着目しましょう。

「厭世観」の類義語とは?

ここでは、「厭世観」の類義語についてご紹介します。

「世を果無む」

「世を果無む」の意味は、空しいとこの世の中を感じることです。

「世を果無む」は、人生の成り行きや人生にあるものは頼りなく、全てが儚くて空しいと考えることを表現する言葉です。

「世を果無む」は、態度や思考において積極的であるとはいえなく、どちらかというとマイナスで悲観的な思考が強いといえます。

「厭世観」とは、物思いにふけって、空しいという感情に浸かっているようなニュアンスが強いことが違っています。

「世を果無む」を使った例文としては、次のようなものなどがあります。

  • 「世を果無む川柳を詠うのが母親は得意である。」
  • 「悲しい事件が最近は多く発生しており、世を果無むことが多くなってきた。」

「拗ね者」

「拗ね者」の意味は、つむじまがりな人のことです。

他の人と調和を保ったり、強調したりすることができなく、態度や思考がひねくれて悲観的であること、あるいはこのような人をいう言葉です。

「厭世観」を持っている人も、一般的な人とはおおむね調和を保ちにくいものです。

ポジティブシンキングが世の中では持てはやされていますが、「厭世観」を持っている人はやはり「拗ね者」と見られるときもあるでしょう。

また、「厭世観」とは、頑固な思考で付き合いが困難である人というニュアンスが強いことが違っています。

言葉が持っている性質上、「拗ね者」はネガティブに相手を捉えてしまう傾向が強いともいえます。

「拗ね者」を使った例文としては、次のようなものなどがあります。

  • 「職人気質であるのは尊敬できますが、相当の拗ね者でもあります。」
  • 「拗ね者でもいいですが、他の人を常に見下したり、批判したりするような態度は改善する方がいいでしょう。」




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RUN-WAY編集部

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